きゃらくたりすてぃっく

性格って変えられるよね。

どう受けとりましたか。可能か受け身か。

いや、これを読んでるあなたにより良い性格になってほしいわけじゃない。意味的には性格って周りの要因によって変わるよね、が正しいかも。

いつもなら家に帰って手を洗いうがいをし母に飛び付きレポートにとりかかる私が、今日は駅のホームでひたすらスマートフォンの上で指を滑らせている。何かあったんだろうねきっと。苦しいとか辛いとか嬉しいとか安心とかそれらを超越する何か。わーい、不良の仲間入り?とか思ったり思わなかったり。いや、思わないか。

誰を否定するわけでもない、もちろん自分を否定するわけでもないんだけど、最近性格って変えられるよねって思うんだよ。

あの頃のあなたはどこいっちゃったのといわれたことが人生で何度かあるけど。まぁでもこの先そんなことはないようにはつとめるけど。てか楽しいこともあるし明日は明日の風が吹くけど。

やりたいこととやらなきゃいけないことを全力でやってみた時にわかる。外から見ればなんか変わったなーって思うんだよね。最近気付いてきた。某赤司さんが、僕が変わったのは必要に応じてだみたいなの言ってたけど説得力あると思う。

もちろん、あなたの精神はかわらないよ、とか味方だよとか言ってくれる人はいるんだけどね。反対してあの頃のあなたに戻ってって言ってくれる人もいるし、悪気ない場合多いんだけどね。むしろ、現在を貶すんじゃなくて過去に目を向けてそちらを好いてくれるのも嬉しい。

今日一日で三回くらい別人になった気分だけど、やっぱり覆せないね。まだまだ先だけど何か勉強やらなきゃ何故か落ちぶれた気がするから帰ろっと。まったく、性格は変わっても癖は抜けないね。勉強やるっていって三時間後にしか始めないのもピアノ掻き鳴らしちゃうのもきっと同じなんだろうな。感受性が豊かで癖が抜けないってめんどくさいなぁ。半日後にはブチギレツイートでもして、明日にはわーいツイートでもしてることだろう。

ではではでは
人生は打算的に。

久しぶりに書いた気がするなこれ。
自分では計算あんまできてないのにね(笑)
今の気分じゃないやこれ

んじゃ

指揮を過激に綴った、見たい人だけ見て☆

1つの壁を乗り越える前にもう1つの壁にぶつかる。よくあることだと思う。
ゴールは変わらないわけだから、物理的に考えてしまえば「退歩」なのだが、それは流石にいたいので退歩ではないことにしておこう。成長過程、と無難な表現にしておこうか。

某ブログもなくなってしまっているみたいだし卒業式の曲とかでもない、名前も出さないので綴ろう。

今日曲をやるとき1パート1つ計6つ(伴奏指揮もだから)目標を各自決めるってやり方を提示した。
私の目標はリタルダンドとアテンポの振り分けを応用する、ってことだったんだけど結果的にあまり達成されなかったんだよね。
皆は目標達成できた?ってきいたら頷いてたのですごいと思って見てたんだけど。

左右提示分けも立派な方法。小学生に使う先生方は多いけど、相手が小学生だからではない。それも立派な指揮だから使われるのだ。だが、さっきの私にはそれを理解した振り方というものが出来なかったのだ。周りに言われるまでもなくわかってるが、こういう場合に関する次までにやらなきゃいけないことは
どんなにわからなくても1分以内に収拾をつける
または
ひたすらやる
このどちらかだろうな。

いや、そもそも迷うなよと自分でも思ってるけど間違ったベクトルを大きく伸ばすよりは幾分かいい
あと、こんな文章書いてないで練習しろと自分でつっこんだけどそれも違うね。一生懸命考えてくれる皆と一緒だから成り立つ練習なんだ。

楽しんでもらうためには、楽しむためには、どうしたらいいか。もっと深く考えなくてはいけないのだろうか、いや、別に考えが浅はかな訳ではない。じゃあより多くの層を狙ったプログラムを組むか。いや、別に一つの手段で済ませてるわけではない。じゃあ、楽典をもっと学ぶか。いや、違う。今問題なのは万人に見やすいが音楽の流れをきちんと創っていく指揮だから専門性は問われていないはず。

いや、でももしも自分に指揮者として知識が足りない部分があったら?
だから周りの皆は知識不足だと認識しないまでも「見にくい」と意見してくれたのではないだろうか

いや、わかるよ、左右使った今日のでいいじゃんっていうのもよくわかる。
でも、他者を尊重するように自分を尊重するのも大事なはずだ。よしとりあえず本やノート見返すか。

、、、こんな具合でいつもフィードバックしてる


採点者に成り下がるか指揮者のままいられるかって壁もあるけど。ただのわがまま言ってる人か指揮者か。ただ皆のいいなりになる人か指揮者か。ただ練習を計画してる人か指揮者か。ただ指揮が好きな人か指揮者か。ただ指揮の動きを再現できる人か指揮者か。自分の演技に酔いしれている人か指揮者か。

その全部の壁に挟まれて時には潰されてるんだよ実は。生ぬるい環境ではない。
その中迷いながらも前に進み続けて、どこか一瞬でもいい、学生指揮者としての姿を見せたいんだ。

尊敬する指揮者を綴り壁に立ち向かう

長らくあいてしまった。

冒頭に説明。これは私が尊敬する3人の指揮者から学んだことの記録、年齢性別名前は一切出さない。
尊敬する順などで書いてるわけでもない。

また、私がここに記してない指揮者の方々をなんとも思っていないというわけではない。
プロの指揮者や憧れている指揮者、単純に好きな指揮者などはこの記事に含まれていない。
学んだことに至るまでオール主観。ご理解願う。

レッツビギン

1人目
この人の指揮は歌いやすい、ピアノが弾きやすい。というより、歌いたくなる、弾きたくなる。包み込むような指揮の中で垣間見る茶目っ気や笑みは、歌い手の多くを魅了することだろう。譜面にとらわれず、クリエイティビティとメッセージ性を存分に引き出すための音楽を常につくる。
この人から学んだことは以下だ。
1パートに母音を豊かにする提案を続けるだけで、全パートの言葉始めの子音がよくなる場合もある。

2人目
腕の動きに魅了された。専門性に優れ、各曲がその特色を引き出されている。何しろ、常人がどちらかと言えば蔑ろにしそうな部分の音がこれでもかというほど輝く。強弱記号pを、小さく激しく演奏する方法を適所に組み込んでくる。指揮で自身が輝きを纏いそれを周囲に染み透らせ音楽をつくる。
この人から学んだことは以下だ。
ルールを守り、他者の考えを取り入れたとしても、表現方法は減らない。むしろ増える場合もある。

3人目
本人はよく、この方法良かったら使って、と言うがなかなか盗めない。人並み外れた音楽性と突拍子もないアイデアを兼ね備えながら、所謂キレーに指揮する。歌い手への要求は一見するととても高いが、よく目を凝らせば要求を達成しやすいステージは既に作られている。
この人から学んだことは以下だ。
弾くのも歌うのも音楽を語るのも指揮のうち。
「人気者」になろうとしなくても指揮者は務まる。


勝手に解釈して勝手に学んでるだけなのでご本人達のこう思われたいという希望があれば則してないかもだけど、この3つが私の今の指揮を支えてる

今一度要素を見つめ直したわけだし
壁、乗り越えるなりぶち破るなり、突破したい

では、また。人生は打算的に。

かいんどねす

人間は感情や理性を持った生き物なのだから、せっかくのそれを善い方向に使わなくてはいけない、相手の喜ぶことを考え、憎しみを制御し喜楽のベクトルを伸ばさねばならない。
これもまぁ、、、ひとつの考え方だろう。
しかしこの考えは度をいきすぎると困る。

簡単な道徳テストをしよう。
「友達があなたの手書きレポートを破いてしまいした。どうしますか?」

どうしますか?
いくらでも思い浮かぶことと思う。

まず、レポートを書き直す、は訊いてるポイントとずれてる気がする。それなら「レポートが破かれていました」でいいはずだ。

なら、書き直すように友達に言う。
わお、ドSかな?でもそれも面白い回答だし、よく考えれば適解な気もする。

相手の謝罪を待つ、わざとじゃないか確認する。
この辺りが所謂無難なのだろうか。

「殴る」とかは非道徳的だが、個人的にはそういった答えなら嫌いでない。
殴るのは良くないとしても、理性をうまく働かせれば少なくとも「怒る」には変わり得るだろう。


それより個人的に気になるのは「許す」と、さもこれが正解ですというように答える人なのだ。
降参である。
簡単に複製できないレポートを破かれても「許す」ってめっちゃいい人。日本社会が望んでいるジンカクシャというやつなのかもしれない。だから訂正の仕様がない。彼彼女が他者に「許す」を強要した場合なら別だが、基本的に「許す」を選んだ人自体を咎めることはしない。というかできない。

しかしこれだけは言わせて欲しい。

道徳は人間の理想を追究するものかもしれないが、人間をカンペキに別な何かに変えようとするものではないはずだ。
You may say I'm a child, but I'm not the only one.

善い行いはすべきだ。
これから社会人になっていく以上、私とて感情を切り捨て善い行動をとることを時には求められるだろうし、それに逆らおうとも思わない。
繰り返して言うが「許す」を否定はしない。

でも、たまには。善い行いのために切り捨ててきた感情の数々を、少しだけ見つめ返しませんか。
復讐に燃えろなどとは全く言っていない。
ただ憎しみや怒り、悲しみを優しさへ変えようとしたあなたの努力、その過程にも目を向けて欲しい。
「優しさ」を生み出したいのならメソッドを理解しろ、ときこえるかもしれない。そう受け取ってもらっても構わないが、そんな難しい話ではない。

優しい人は、自分の優しさの本質に気付いてこそ、そこから優しい世界が自然と広がる。
なんとなくそんな気がするのです。

では、また。人生は打算的に。

のっといれいすばっとみにまむ

最近他者を真似ることが好きになったので開設。

タイトルかっこつけたのか、いやしかも使い方間違ってないかと思う方もいるだろう。全くもって否定しない。まぁ本題といこう。

皆さん忙しいからやることがありすぎる状態なことと思う。私も現状キャパオーバーでゲホゴホ状態。

そんな時、なにかを徹底的排除しようとする癖がないか。家事もうしない!課題サボる!ご飯面倒だから抜く!ちなみに前まで私はこんな感じだった。

でも徹底的排除したところでご飯はいつか食べないと死ぬし課題も授業もどこかで取り返さないと社会的に死ぬかもしれない。徹底的排除を試みては自分を死の縁に追いやることになる。

ではどうすれば良いか、最近考えて実行しているんだ。それは、そう、最小化である。

きっかけは母親が風邪の時部屋に持ってきたご飯だった。今までお粥茶碗一杯で残していいからねーだったんだけど、こないだ一風変わったものを持ってきてくれた。
三角プレートにトマトと野菜のスライス、鶏肉小さいの二個、小さいパン二分の一。
結論お粥より食べやすかった。
※個人の感想です。あと重症及びインフルエンザの人は真似しないでください
熱や倦怠感もすぐ治まった。まぁ卵だけのおかゆより栄養あるから当然なのかもしれない。

これに気付いた私はすぐ様々な最小化を試みた。

訳の課題は40文あるうちの、初めと終わりの5文だけ事細かに翻訳。喉がつらければ、グループワークでも他の人の話をまとめ、自分にふられた時だけ短く喋る。学校に行くのがだるければ忘れ物あってもいいやと準備時間を最短にし家を出る。

それ流石にあかんやろと思われるかもしれない…。
でも結果、先生には誉められたしグループワークもうまくいった、更には忘れ物をしなかっただけでなく、消しゴムを忘れた友達に消しゴムを貸したくらいだ。

もちろん、個人差があると思う。
でも、すべての負担を徹底的排除しようとするも挫折して結局やって心や身体の折れた経験があるのなら、是非はじめから最小化することを試みてほしい。
いつも真剣なあなたが身のまわりのことを最小化している様を見れば、周りはそれに答えてくれる。
そしてあなたも、私はできることをやった、と胸をはれる。

とはいえ自分の生き方大事にしてください。
あとこれ、体調崩した場合でいうと、ゆっくり休んだ後の話だから!
何もかもほうりすてて休んで、その後の話だから。
疲れてたらまずは休んでください、それかやりたいことを最大限やる。その後最小化ね。

(((てか、めっちゃ休む→自分の負担を最小化→ちょっと増やす→やっと復帰って自分なにしてんマジで。でも効率的。ありがとうみんな)))

では、また。人生は打算的に。