性悪説

はじめにタイトルとは関係ないのだが、最近ダメなことが多い。課題をその日まで持ち越したり、持ち物を忘れたり、通しで歌詞を間違えたり、気配りが偏りすぎて一定の人に辛い思いをさせたり。

こんな調子だから「珍しいね」と言われる。
(これを珍しいと表現してもらえるだけの行いを普段してるのか、少し自分に驚いた)

まぁ第一に、珍しいことはおこっている。身内ではちょっと(私が大変なのがちょっとというだけで当人たちはものすごい大変かもしれない)大変なことが起きているし。

第二に、昔から「えー、ここでは普通がんばれるだろ」「ここはがんばってくれるだろう」という周囲の期待にこたえられない。周りの皆がものすごい勢いでラストスパートを掛けるときほど、え、なんであなたはそこで立ち止まっているの?というところでつまづく。

第三に、体が不調だ。睡眠をきちんととって栄養のとれた食事を食べ、だらけることもなく仕事はそこそこして、他者から何かでものすごい責められたわけでもないのに体が不調。しかし顔に出ないから大丈夫?とかいわれることは少ない。

原因がわかってもどうにもできないこと2つと原因すらわからないこと1つで構成された鎖に心身を縛られている。

さて本題。こんな風になった時、自分が性悪説を好きだと再認識する。同期LINEに人間はかくも素晴らしいスタンプ送ってるけど。だって、もともと人間はダメなもの、となれば。最善を尽くす努力はするけどそもそも私にも過剰に期待しないでほしいと簡単に思えるし、相手に何をされたってもともと人間がダメなものだったらむしろそれに抗おうとする努力値に目がいく。その努力を優しさと呼べたなら素晴らしい。

更に核心に迫る。

確かに、もともとが悪であるからと悪事を働くのはもっての他だろう。だがもともと悪であるから怠惰な行動に出るときもあるのは納得できるし、もともと悪なのに善の行動に大きく出た時皆が心を動かされその人(の行動)を敬うと考えれば辻褄があうしすてきではないか。今私が性悪説をおしているのは自らを守るためでもある。

もちろん、幸福しかないような状態が生まれたらそのときは性善説に身を委ね、「もともと人は善なのだから信じてみよう」「私には人を思いやる性質がある」という気持ちを全面に出すのが良いことであろう。が、今のところそこまで環境の良い人というのもあまりきいたことがない。

それに、性悪説が素敵なのは、あくまでもともとの性質が悪いものというだけ。それにいくらでも抗える、行動を起こすことができると考えることもできる。もし落ちそうになっている人が赤子ではなく自分の敵だったらどうだろう。その時は、落ちそうになってる人を、性質じゃなく計算で助けたっていいじゃないか。見捨て去ろうとする己に抗い「いい行いをしなくては」と手を差し伸べる、そこに生じるエネルギーもきっと何かを救う。(何かを救うってかこの場合命助けてんじゃん)

えっと、漢文全然わからないので偉そうなことは言えないんですが(いや、いってる)そんなこんなで今は性悪説が好きなんですよ。

だから、性善説を推してる人って悩みとか大変さは別としてきっとキラキラしてるんだろうなという幻想を抱いている。

手紙を何枚書きすすめられるかわからない時間を使ってこんなブログを書いてるのは悪の性質に抗えない怠惰なのかもしれないね。でもいい行いをしようとはするし、頑張ることには頑張るからこれからも応援してほしい、あまりに高い期待はしないでほしい!よければ一緒に頑張ろう!はは、わがまま(笑)


それでは。人生は打算的に。

また久しぶりにかいたなこれ、アデュー。