かいんどねす

人間は感情や理性を持った生き物なのだから、せっかくのそれを善い方向に使わなくてはいけない、相手の喜ぶことを考え、憎しみを制御し喜楽のベクトルを伸ばさねばならない。
これもまぁ、、、ひとつの考え方だろう。
しかしこの考えは度をいきすぎると困る。

簡単な道徳テストをしよう。
「友達があなたの手書きレポートを破いてしまいした。どうしますか?」

どうしますか?
いくらでも思い浮かぶことと思う。

まず、レポートを書き直す、は訊いてるポイントとずれてる気がする。それなら「レポートが破かれていました」でいいはずだ。

なら、書き直すように友達に言う。
わお、ドSかな?でもそれも面白い回答だし、よく考えれば適解な気もする。

相手の謝罪を待つ、わざとじゃないか確認する。
この辺りが所謂無難なのだろうか。

「殴る」とかは非道徳的だが、個人的にはそういった答えなら嫌いでない。
殴るのは良くないとしても、理性をうまく働かせれば少なくとも「怒る」には変わり得るだろう。


それより個人的に気になるのは「許す」と、さもこれが正解ですというように答える人なのだ。
降参である。
簡単に複製できないレポートを破かれても「許す」ってめっちゃいい人。日本社会が望んでいるジンカクシャというやつなのかもしれない。だから訂正の仕様がない。彼彼女が他者に「許す」を強要した場合なら別だが、基本的に「許す」を選んだ人自体を咎めることはしない。というかできない。

しかしこれだけは言わせて欲しい。

道徳は人間の理想を追究するものかもしれないが、人間をカンペキに別な何かに変えようとするものではないはずだ。
You may say I'm a child, but I'm not the only one.

善い行いはすべきだ。
これから社会人になっていく以上、私とて感情を切り捨て善い行動をとることを時には求められるだろうし、それに逆らおうとも思わない。
繰り返して言うが「許す」を否定はしない。

でも、たまには。善い行いのために切り捨ててきた感情の数々を、少しだけ見つめ返しませんか。
復讐に燃えろなどとは全く言っていない。
ただ憎しみや怒り、悲しみを優しさへ変えようとしたあなたの努力、その過程にも目を向けて欲しい。
「優しさ」を生み出したいのならメソッドを理解しろ、ときこえるかもしれない。そう受け取ってもらっても構わないが、そんな難しい話ではない。

優しい人は、自分の優しさの本質に気付いてこそ、そこから優しい世界が自然と広がる。
なんとなくそんな気がするのです。

では、また。人生は打算的に。